今日は広島に原爆が投下された日、そして9日は長崎に投下された日です。
僕は長崎の出身です。
長崎で働いていた僕の叔父(母の兄)は原爆で亡くなりました。
その日、疎開先で祖父の実家がある諫早市に叔父は帰って来ませんでした。
翌日、長崎市に叔父を探しに入った祖父は放射能を浴びてしまいました。
亡骸は発見できたそうですが、胸に大きな穴が開いていたそうです。
被爆して白血病を発症した祖父はいつも被爆手帳を持ち歩いていました。
でも80歳近くまで生きてくれて僕をかわいがってくれました。
二十数キロ離れた諫早でも投下された原爆の音がしたと母は話していました。
母が疎開せず長崎に残っていたら僕はこの世にいなかったかもしれません。
僕が住んでいた場所は原爆中心地からさほど遠くない場所で、平和公園や
飴のように折れ曲がった鉄塔や崩れた浦上天主堂石像などが置かれた
原爆投下中心地の公園、そして人々が水を求めて倒れていった浦上川が
魚釣りなどの遊び場になっていました。
でも一度見学に訪れた原爆資料館だけはとても怖くて二度と行くことが出来ませんでした。
大人になった今でも見に行くのはつらいかもしれない。
小学校4年の担任だった「W先生」は本当に色の白い女の先生でした。
夏休み前、先生が急に学校に来られなくなって、どうしたのかなあと
みんなで話していたのですが、夏休みに先生に会いに行こうということになり
爆心に近い坂本町のお宅へ出かけました。
先生は寝ておられましたが、みんなが来るととても喜んで、
起き上がり相手をしてくれたことを覚えています。
しかし、夏休みを過ぎても先生は学校には来られませんでした。
その後白血病で亡くなられたと母から聞きました。
小学校も中学校も原爆を体験された先生方がたくさんおられ
身体にケロイドが残る先生、ガラスの破片が身体に残ってて、
定期的に病院で摘出しないといけない先生、防空壕に入ってて
奇跡的に助かった先生(今でもずっと交流を続けています)
みなさん何かある度に原爆の恐ろしさを話されました。
この時期になると毎年自分の原風景的な事を思い出します。
でもそのむごたらしい傷や体験談は記憶されていますが、
それ以上に公園に咲くサルビアの赤い花や夾竹桃、強い日差し、クワガタ取り、
クマゼミの鳴き声などばかりが心に残っていて、それは多分、戦争が終わって
廃墟から復興し少年時代を過ごした平和な長崎の街そのものの印象なんだと思います。
今回の地震、津波、原発事故も子供達にはなんとか心の傷として残らないで欲しいと思います。
記憶として脳に刻まれるかもしれませんが、出来ればこれから先、楽しいことをたくさん経験して
そのことを思い出すようにして欲しいと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿