大学1年の夏、父が急死し下宿生活に余裕が無くなってしまった。母に金銭的な負担を出来るだけかけたくなかったので、最低限の仕送りをしてもらい、あとはアルバイトでなんとか食いつないだ。夢は諦めていなかったが、海外を放浪したり仲間と馬鹿なことをしたりといった学生らしいことは何も無いままに何とか卒業だけはした。今思えばそれが良かったのかもしれない。知識に対する飢えや探究心はずっと忘れることがなかった。社会人になり、もう一度勉強をしたいと思い、やれることはやってみた。そんな時、人は、例えば知識に飢えてそれを吸収しようとする時、とんでもない情報量を頭に蓄えることが出来るんだと思った。空腹時、腹いっぱい食べ物を詰め込むとそれが全てエネルギーに変わるようなそんな充実感を感じた。歳を重ね少しずつ余裕が出来て、旅をするようになった。さすがに若さに任せた無謀な旅は出来ないが、少しだけ大人の視線で世界を見ることが出来るようになったと思う。

ストックホルム郊外にあるアスプルンドの「森の斎場」を訪れた時、
誰もいないこの空間で一人の日本人学生と出会った。
早稲田大で建築を勉強しているという彼は、夏休みを利用して一人で北欧を回っていた。
彼はベンチに座り、スケッチをしながらこの風景を一生懸命「記憶」しようとしていた。


学生時代、したくても出来なかった事を彼は実行していた。
それが羨ましい事とは思わなかったが、若者の純粋な視線で
見たもの全てを「記憶吸収」して欲しいと思った。
互いに感じるものは違うかもしれないが、アスプルンドへの畏敬はどこかで通じているのだろう。
このとてつもなく広い敷地の風景の中、人間は僕達しかいないのだから。
彼は僕が旅しているルートと反対に、この「森の斎場」を見た後、その夜のフェリーでフィンランドへ向かうと言った。
諸外国の多くの建築巡礼地で学生達を見かける。彼らが何を見、何を感じているのかは
わからないが、少なくとも見たものすべてを「記録」するばかりでなく「記憶」して欲しい。
「記録」はどこかで紛失してしまうこともあるが、「記憶」は脳内のどこかに保管されていて
必要な時必ず情報提供されるはずだから。。。。
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