2009年10月18日日曜日

一人泣いた建築

最近、東京で共に土地探しから考えたいというお客様や
岡山県からは私どもの作品に興味があるので作品集を送って送って欲しいという方、
最近完成した住宅のクライアントからは別に新しい住宅を検討したいなど、
住居系の問い合わせが増えてきた。本当に有難いお話で大変感謝しております。

そんな中、あるプランを考えていくうちに、はたして自分は設計の中身にどれだけ
真剣に向き合っているのだろうか?と考え込んでしまった。
打合せで要望などをお聞きし、そのことを考慮しながら設計してるつもりになっているだけで、
深い考えや工夫もなく安易に提案をしているのではないか?

設計者の思いばかりを前面に出し、クライアントが求められていることを設計に
きちんと反映していないのではないか?そんなことを考えながら、
いつもはスタッフが作ってくれるプレゼン模型を久しぶりに自分で作り始めた。
週末の終電間際にやっとその模型は出来上がり、じっくりと眺めて思わずハッとしてしまった。
真剣に悩み考え、試行錯誤した痕跡が見つからないのだ。

こんなプラン提案出来るわけがないと思い、あらためてプランを練り直すことにしたのだが
その時思い出したのがアルヴァロ・シザ・ヴィエイラが設計したマルコ・デ・カナヴェーゼスに
建つ「サンタマリア教会」だ。
 
  
ポルトの街から電車を乗り継ぎ1時間30分程でマルコ・デ・カナヴェーゼス駅に到着する。
見ての通り小さな駅で駅前からのバスもない。運よく客待ちのタクシーが待機してればよいが
いなければ乗降客は自家用車で迎えにきてもらうか、公衆電話に貼ってあるタクシーの
携帯番号に電話することになる。僕は運よく駅へお客を乗せてきたタクシーを拾うことが
できたけど。

 
駅から10分程走ると丘の上に建つ教会に到着する。
白い塊を彫刻刀で大胆に削りだしたようなフォルムだが
教会内部は心を奪うような豊かな空間が存在する。
見学者は私一人で朝早く到着したものだから、見学開始まで1時間もあり
別棟の管理室にいらっしゃる神父様に少し早く開けてもらえないか
お願いしたのだが、「規則だから1時間待ちなさい」と言われてしまった。

 
朝の澄んだ空気の中、その場所にいることだけでも満ち足りた気持ちだった。
教会の向かって左側の塔にある開口部に光がさす。
この光が後程、感動を呼ぶことになるのだが。

  
やっと開場時間が来て中に入ることができたのだが、見学者はもちろん僕一人で、
神父様は「ゆっくり見ていきなさい」と声を掛けれら控え室に戻って行かれた。

内部空間は静寂で高い天井のハイサイドライトから柔らかな光が零れ落ち、
シザ自身が心を込めてデザインした十字架や、整然と並べられた木製の椅子が
静かに祈りの主たちの訪れを待っていた。

  

辺りには洗礼室の大理石の器から滾々と湧き出る聖水が流れ落ちる音だけが響き、
言葉では言い表せない神聖な空気が漂っていた。

洗礼室に近寄り、その器の写真を撮って吹き抜けの上部を見上げた瞬間、
理由もなく涙がボロボロこぼれてきて嗚咽を漏らしてしまった。
そこにはキリストが民に祝福を与えているシザ自身のドローイングが描かれており
ハイサイドライトから差し込む光の反射が、キリストの身体と祝福を受ける者の
身体を貫通していたのだった。なんと美しく崇高な空間なんだろう。
あまりの感動で涙が止まらなかった。

この光と洗礼室の場所は偶然ではなく、シザ自身が熟考して考えた開口部と
ドローイングの配置だろう。これが本当の建築なんだと心の底から思った。
色々な細工やデザインをしなくとも本当に必要なものを配置するだけで
こんなにも感動する空間を作ることが出来るなんて、あらためてシザは
すごい人建築家なんだと実感した。

この建物が完成するまでに6年の歳月が流れている。58歳くらいから計画を始めたようだ。
完成までの間、彼は悩み葛藤し続けたのだろう。その痕跡に僕は感動し涙したのだと思う。
教会から駅へ向かうひまわり畑の田舎道を歩きながら、シザのすごさに身震いした。

建築は感動を与えればよいというものではないだろうが、少なくとも悩み続け、あらゆるものとの
葛藤を経た上で、納得できる建物を作らなければならないとしみじみ感じたのだった。

もう一度初心に戻り、必死で考えよう人は悩み苦しむために生きているのだから。

0 件のコメント:

コメントを投稿